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​Rebetika

オスマン大衆音楽から派生したギリシャの音楽Rebetikaとはどんなものでしょうか

Rebetikaとは

 Rebetikoという音楽は19世紀中頃から後半にかけてギリシャのアテネ、テッサロニキ、ピレウスの産業革命によって生まれた大きな都市に多くの労働者が流入し、スラムを形成した場所で生まれました。そこの音楽は、主に「manga」(タフガイの意)の音楽として認識されていました。
 いつからrebetikaという名前で呼ばれはじめたのか、どのような経緯かは定かではありません。語源に関しては、トルコ語のrembet( 慣らすことのできない、反抗的な)、古代ギリシャ語のrembomai(一定でなく、ランダムに動く)の二つの説があります。
 
 この文化はギリシャの宗教的、政治的な組織から、警察を通して取り締まられました。この弾圧の背景には、ギリシャが国民国家を作ろうとして行われた政策があります。19世紀に、オリエンタルなものから引き離す形でギリシャのフォーク音楽のナショナリズムが始まりました。1800年代のギリシャでは、古代ギリシャを根幹に据えてナショナリズム的教育が強化されました。その時代に、「the Hellenic art of music:2500 years of hellenic music history」が出版されています。1980年代には大きくギリシャのナショナル音楽が再定義され、受け入れられるようになったのです。それは400年の間のオスマン帝国の支配による文化の混交の痕跡を全て消そうとする試みでもあると言えるでしょう。
 
 またトルコでもこの音楽は「ギリシャ的である」として、1923年と1940年に攻撃されました。トルコにおいては、オスマン帝国から共和国になるに当たって、オスマン帝国の文化は認められなかったのです。
 
 ギリシャがオスマン帝国から独立を宣言した「再ギリシャ化」、「新ギリシャ化」の試みの中で、この文化はハイブリットの文化として生まれました。Mangesは西洋と東洋の混ざった服装をしています。その振る舞い方は退廃的で、道でサテンのサッシュを引きずり、それを踏むものを刺すと脅した、目を墨で囲み、水平の口髭を生やし、左肩からケープのようにジャケットを垂らしたという記述が残っています。無分別な衣服は目についたため罰せられ、彼らの風俗は西欧の文明化のゆりかごと批判されました。
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​社会

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 mangesは刑務所に頻繁に置かれる事で、アウトローなアイデンティティを養成、強化しました。刑務所内でブズキやバグラマを用いたギリシャのフォーク音楽のメロディーでその状況を歌い、Rebetikaが生まれたのです。下層世界、大麻、刑務所、仕事、労働者の生活、病気、母親、流刑、海外などといったテーマでRebetikoは歌われました。
 
 Rebetikaはtekeと呼ばれる大麻窟でパフォーマンスされたました。見返りや労働によって達成される社会的地位を評価よりも、繊細な同胞愛や実体験に基づく苦しみに重きをおく彼らの気風が強く歌詞に現れています。それが反体制的であるとして、大麻だけでなくそれをよしとするエートスを象徴する音楽そのものが弾圧の対象となりました。
 
 かつてtekedesでメジャーだった「牢獄のRebetika」は人の流れに強くに影響されました。Holst  Sarhaftが「トルコに住んできて、トルコ語を喋り、トルコ人の生活様式を有した」と記述した、住民交換による難民たちのことです。tekeは彼らにとっての新しい国、ギリシャの中で、数少ない故郷を感じられる場所の一つで、かつてCafe aman smyrnaと呼ばれた場所や、volos、テッサロニキで歌っていた悲しみの嘆きである東洋スタイルのamaneをtekedesに持って来たのです。
 
 新参者の声のスタイルやリズムは強くRebetikaの音に影響し、住民交 換に伴って追い立てられたいう悲劇性は、アウトサイダーのサブカルチャーとして発展しました。
 Petropoulosが説明するには、「rebetissaはその当時のギリシャでもっとも解放的な女性だった。彼女は好みの男性に誰でもエロティックな振る舞いをし、またレズビアンの関係を持つこともあった。rebetissaは大麻を吸い、素晴らしいダンサーであった」そうです。
 
 その一方で女性はZeibekikoを踊ることができませんでした。Zeibekikoは「反抗」、「不満」を表現するものであったため、既婚女性が踊った場合は結婚に不満があるとみなされたためです。女性で踊ることができたのは、寡婦、子供を失った母、売春婦だったと言われています。前述の「最も解放的な女性」は実際には地中海文化にある恥と名誉の文化の中で所有と庇護の対象であった女性とは異なる分類がされていたと考えられます。

その後

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 1930年代はRebtikaの黄金時代とでした。録音が始められ、音楽やそれと結び付けられた危険性は薄れて行きました。それと同時に、録音時間の制約によりその高度な即興性や冗長な語りは少なくなりました。
 
 そしてRebetikaの音楽は、生演奏においてもかえってレコードと同じようにされるようになったのです。その観客はギリシャのブルジョワによって構成されるようになり、演奏者と聴衆は分断され、聴衆をミュージッキングサブカルチャーそのものから引き離すこととなったのです。
 
 この変化は作曲家のtsitsanisによってより確実になりました。彼は1940年から1950年代にかけて活動的であった人物で、Rebetikaのスタイルではあったが、より大衆化され、東の趣が少なく、よりロマンチックな歌詞の曲を作曲しました。彼はアテネ大学の法学徒で、mangaとしてのバックグラウンドを持たない人として有名になったのは初めての人物です。
 
 1950年代にはブズキが電子化し、4組目の弦が追加され、より早弾きができるようになりました。それによってarchontorembetesという名手が現れ始めました。彼らは今日のアメリカのラップの歌手のように、大儲けをし金遣いの荒いことで知られています。Rebetikaの踊りもまた変わり、より内省的な側面が減り、スタイルが確立され足を叩くフィギュアが頻繁に行われるようになりました。
 
 この時代から、この文化の場所は大麻窟であるtekedesから、ブズキのクラブとして知られているbouzoukiaに移り変わりました。クラブに行く人間は割るためのプレートを購入し、どのくらい感動したかを表せる風船を買いました。ここから、この文化が評価と賞賛の対象となったことが伺えます。
 
 そして続く国内の紛争や1970年代の軍政権の圧政の時に、Rebetikoは国家の音楽になりました。富裕層による政府と社会主義者との内部抗争とそれに続く第二次世界大戦の間、Manos Hadzidakis(高い芸術性を持つギリシャの作曲家)はRebetikaを人々の「本当の」音楽、階級やエリアに関係なく全てのギリシャ人に愛される音楽として使ったのです。また映画「その男ゾルバ」(1964年)に見られるように、この文化は苦境の中にあった近代ギリシャ人男性のアイデンティティとなりました。
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