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Zeybekの

​歴史

トルコの踊り、zeybekはどのような歴史を歩んできたのでしょうか

起源

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  元々のzeybekという言葉は特定のエスニシティを指す言葉ではなく、現在のエーゲ海沿いのトルコ地域にいたギャングを指すものです。この集団はオスマン帝国下の17世紀ごろから形成され始めたと言われています。トルコのzeybekにkoca Arapというものがありますが、それはafro zeybek、アフリカ系のzeybekの名前から取られたものであるとされています。イズミル県のティレには奴隷市場があったため、トルコ化する黒人がいたのです。zeybekはそのような、山の村に住んでいた機動力の高い傭兵集団の踊りです。
 
 彼らの住んでいたエーゲ海沿岸の、イズミル(トルコ語:Izmir、ギリシャ語:smyna/Σμυρνη)やベルガマ(トルコ語:Bergama、ギリシャ語:
Pergamon/Πέργαμον)といった都市は、古代ギリシャの時代にギリシャ人によって建設されました。それらの都市はトルコ系遊牧民やビザンツ帝国の支配を経て、15世紀から長らくにわたってオスマン帝国下にありました。エーゲ海に面するそれらの都市は主に通商で栄え、イタリア人、イギリス人といった西欧との交流も盛んでした。またここに住む人々の半数はギリシャ人でした。
 
  zeybekはイズミルのディオニソスと関連しているという説があります。ピリヒオスの戦の踊りは、プラトンの時代からトレーニングのために踊られていました。アナトリアの踊りでは、ディオニソスの祝いの際によくこの踊りを踊ったと言われています。オスマン帝国後期にはこの古代由来の踊りは田舎の山で続けられ、kalenderiやbektasiといったものと混ざり合っていったとされています。

踊りとして

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オスマン帝国下の祭においては、さまざまなジャンルの踊りがパフォーマンスされました。その踊りは各民族、プロの劇団、奇抜なもの大道芸、軍のダンスなどでした。
1900年にはriza tevfikによって、「オスマンの国々における、踊りとその多様な形」(原題:Memalik-i Osmaniye’de raks ve muhtelif tarları )が出版されました。その踊りは現代トルコの踊りだけでなく、バルカン、エーゲ海や黒海沿岸の踊りが紹介されています。
 また「Tarcan Zeibegi 」という本が1928年、selim sırrı tarcanによって出版されました。
 彼は青年トルコに属しており、1898年にイズミルの公職についたとき、エーゲ海沿いの村を訪ね観察、イベントへ参加をしました。
  1900年にはスウェーデンに行き、そこで見た「ナショナルなフォークダンス」に強く関心を寄せました。そして帰国後、スルタンResad のもとの六人の兵士を見つけ、zeybekを見せてもらいました。1916年には人々に広めやすくするために、zeybekを方法的に振り付けます。その曲が、「sari zeybek」です。テンポをあげ、腕に波の動きをつけ、ラフでシャープな動き、即興性を消しました。また学びやすいように男女混合でで踊れるようにしたのです。彼はその踊りを、アタトゥルクに教育大で教授しました。機関ではなく彼や彼の学生の個人的な伝達だったため、ナショナルダンスにはなりませんでしたが、1938年に「人々の家」を設立し、その踊りはさらに伝達されていったのです。

トルコとZeybek

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 第一次世界大戦でオスマン帝国が降伏すると、1919年にギリシャ軍によってそれらの都市は征服されました。しかし1922年にはイズミル、アイドゥンでのギリシャ軍に対するトルコ軍の反撃において、ケマル・アタトゥルクが活躍しギリシャ軍は撤退しました。zeybekのリーダーEfeはそれに協力して戦った英雄として、今尚人々の人気を集めています。
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