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村/都市

​オスマン帝国下にあったかく村/都市ではどのように音楽が実践されていたのでしょうか

コンスタンティノープル

 オスマン帝国下では、各民族や軍隊、道化師のパフォーマンスが行われるなど文化的な催しが多くありました。その中で、オスマンーギリシャカフェ音楽が都市で花開きます。最初はクリスチャンとユダヤ教徒の地区、peraとgalataで生まれ、その後にはムスリム地区のsehzadebasiとbeyazidに広がって行きました。1890年ごろになると、この地域だけでなく、イタリアなどの西欧の音楽の影響も見られます。
 オスマン帝国の大衆音楽はギリシャ語の歌詞でも1920~1930年にギリシャで録音されています。そこではギリシャ風のアレンジも取り入れられました。
 音楽文化の中心はコンスタンティノープル/イスタンブールにありました。交易や通訳に携わっていた人々や、帝国の支配層にいた人々がパトロンとなり、音楽、踊りを提供する劇場、キャバレー、ナイトクラブ、タベルナが密集していたのです。オスマン大衆音楽cafeが生まれたのは、スルタンaddulhamidⅡ世の時です。コンスタンティノープルではpera地区のgazinoというナイトクラブがあり、準クラシックとPOPが演奏され、calgili kabvesiでは主にpopsが演奏され、そこには中流から上流階級の客がいました。galata地区とtatavla(kurtulus)地区のタベルナの多くはギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人によって運営されており、食べ物、アルコール、音楽が提供されていました。田舎の音楽のかかる古いタイプのカフェはsemai kabvesiと呼ばれ、そこでは民族音楽が形成されました。balozというのもあり、船乗りや労働者が食べ物やアルコールを消費する慎ましい音楽カフェやパブリックハウスのようなものでした。
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 オスマン帝国下では各民族が分業して住んでおり、その関係は良好であったそうです。例えばトルコ人は兵士と農民、ギリシャ人は布屋と商売、アルメニア人は石の家づくりや金属加工に秀でていました。人々のルーツ、宗教は互いに異なっていますが、一つの村に住んでいたのです。そして村では互いに分かれて住んでいたために、文化や習慣は共有されなかったのではないかと考えられています。
 住民交換の後はその分業体制が崩れ生活は危機に陥りましたが、トルコではケマル・アタトゥルクが多くの工場や施設を建てるといった政策をとり、持ち直しました。

スミルナ/イズミル

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 ​ コンスタンティノープルは常に強力な文化の中心でしたが、スミルナでは近隣の村からローカルな伝統を受け取ることができました。1922年の戦争まではカフェ音楽の中心であったとも言われています。
 1900年代ごろのイズミルやベルガマでの曲には、トルコ語とギリシャ語の両方で収録された同一の曲が見つけることができます。スミルナは「異教徒の都」と呼ばれるほどギリシャ人が多く住んでおり、その人口はイスラム教徒とほぼ同じくらいでした。
​ また国際的な港としてイギリスやフランスなどの西欧諸国との関わりが深かったのもこの地域です。それらの強国によって経済や産業に打撃を受けたのち、民族自決に関わる動きの波及も早かったことから、住民関係は急速に悪化しました。

アテネ、テッサロニキ

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 一方アテネやピレウスにおいては、オスマンスタイルの音楽カフェはkafe amanとして知られていましたが、最初に新聞で言及された時は、メインの楽器、「santur」からkafe sandourと呼ばれていました。アテネでは1873に生まれました。1922年の住民交換より前に、ギリシャにオスマンのポピュラー音楽の聴衆がいたということになります。Karsilamas、Zeibekiko、Thistetelliはその当時にすでにあったと考えられています。
 
 テッサロニキ(ギリシャ語:Θεσσαλονίκη、トルコ語:Selanik)ではギリシャ語話者のギリシャ正教の人口は三番目だったため、オスマンナイトクラブやカフェ音楽は広く知られていたと思われます。
 
 最初のカフェでの演奏者、女性歌手、ダンサーはコンスタンティノープルからきたオスマンギリシャ人であったそうです。その後彼らはギリシャに定住しました。
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