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混ざる文化 支配と交錯
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エーゲ海沿いの地域は、古来より多くの民族の移動の多い地域でした。テッサロニキ、カバラ、サンティ、コモティニ、エディルネにかけてはギリシャ、マケドニア、ブルガリア、トルコの民族の混在するトラキア地方と呼ばれる地域です。それぞれの民族や村ごとに特徴がありますが、9拍子のリズム、楽器、和音に多く共通点が認められます。
また入植、支配、征服の関係による人々の集団移住も多くありました。例としては古代ギリシャのイオニア人による現在のトルコのエーゲ海沿いの都市の建設、ギリシャのポントス人による黒海沿岸への入植、オスマン帝国によるテッサロニキやクレタ島などの島々の征服とその支配に伴う人の移動によって、一つの村や都市に多数の民族が住んでいました。
またこの地域で重要なのはオスマン帝国による支配です。オスマン帝国(1299~1922)というのは多民族、多重言語、多宗教国家でした。その支配領域は最大だった時期で、西アジアからアナトリア、東ローマ、バルカン、北アフリカなど地中海全般に及びました。宗教に基づいた共同体を利用した政治体制は多くの民族が共生することを可能にし、この時期に多くの文化が混ざりました。
ギリシャからトルコに来たイスラム教徒たち、Mübadeleたちもトルコ語を話す人とギリシャ語を話す人の2通りがいました。それはオスマン帝国の植民の仕方のためです。オスマン帝国がテッサロニキやクレタなどに攻め込んだ時に、降伏か抵抗を選ばせました。前者の場合は少ないトルコ系民族を管理のために送り込み、その場所でのマジョリティはギリシャ系のままだったので、ギリシャ語を話すようになりました。後者の場合は多くのトルコ系の人々を送り込みその土地のマジョリティとなったため、そこではトルコ語を話し続けたのです。そのためAptaliko/Cordon Zeybekといったジャンルでは、同一の曲がトルコ語とギリシャ語の両方で歌われることもありました。
第一次世界大戦と分割
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その後、オスマン帝国の衰退と第一次世界大戦によって、国境と民族を一致させようという民族自決運動が各地で高まりました。それに乗じたギリシャ軍によるスミルナ(現イズミル)への侵攻とそれに反撃したケマル・アタトゥルク率いるトルコ軍の反撃によって、その地域に住んでいたギリシャ人はギリシャ本土に逃亡しました。そして住民交換によって人々はイスラム教、ギリシャ正教といった宗教によって民族を区別し、国境と同じように分けられ、強制的に移住させられたのです。
住民交換の際にトルコからギリシャに流れ込んできたギリシャ人は、その多くはトルコ語やきついポンドス方言などを話していました。そのため「ヤウルトヴァプティズメ ニ」(ヨーグルトで洗礼を受けたもの)と呼ばれるなど、差別の対象となりました。同様に流入者も本国の生活ぶりを田舎臭いと軽蔑していました。
新しい文化の創造
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トルコではイスタンブール、トゥズラといった港が使われ、そのような人々はMübadele(交換の意)と呼ばれます。そしてギリシャ側ではピレウスやテッサロニキにそのような人々が流れ込見ました。その後にはアテネのプラカ地区やテッサロニキでトルコの影響を強く受けたRebetikoという大衆音楽が生まれることになります。
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